ログイン某日、霞ヶ浦警備保障の通常訓練でのこと。指導官がみんなの前に、とてつもなく顔のいい御曹司を連れてきた。「あー、彼は……とりあえずバイトで入った日立祐市くんだ。実際の業務に関わるというよりは、自己鍛錬のために来たらしくてな……」指導官は困惑顔だが、祐市は堂々としたもの。「日立祐市だ、財力でここにねじ込んでみた、よろしく頼む」居並ぶ霞ヶ浦警備保障通常警備員たちは、その全員が反応に困ってオロオロと身を揺らす。「あの、指導官、彼は……」「ああ、お坊ちゃんがちょっとハードなエクササイズ気分でやってきた、みたいなアレだな。だが安心しろ、彼には特別指導員をつけてある、君達の訓練に影響を及ぼすことはない……はずだ!」特別指導員としてやってきたのはあの男――爽介だ。彼は現役のエージェントであり、その肉体は無駄を一切削ぎ落とした形で鍛え上げられている。表情も凛々しく、立ち姿にも安定感がある彼は、犬で例えるならばシェパードといったところか。爽介の前で一丁前にピシッと姿勢を正して立つ祐市は、犬に例えるなら柴犬……「いいえ、あれは豆柴よね、みて、強さが一切感じ取れない……」「わかるわ、うちの実家の犬に似てる。本人だけは凛々しいつもりだけど、可愛さしかないあれよね」女性隊員たちの囁き声に気づかず、祐市はますます胸を張る。「俺は史緒里を守れるくらい強くなりたいんだ、ぜひ、厳しく、頼む」無理筋がすぎる。爽介は呆れて首を振った。「まあそれは、おいおいということで……まずは基礎訓練からな」しかしこの豆柴、魂は狼(のつもり)である。不服そうに鼻を鳴らして抗議する。「いや、実戦形式で頼む。俺は1日も早く、史緒里を救いに行きたいんだ」「うっわ、扱いずっら」ここで指導官が助け舟。「どの程度の“実戦”を組めばいいのか、まずは君の力を見極める必要がある、そのための基礎訓練だよ」「なるほど、一理ある」まずは腕立て伏せから。祐市は張り切って両手を大地につけた。「いーち!」「ふっ、余裕だな」「にーい!」「まだだ、まだいける!」「さーん!」「くっ、ここを……乗り越えれば……!」祐市の両腕はすでにプルプルと震えている。だが表情は凛々しく、キリッと前を向いて。イケメンゆえに、額にびっしり浮かんだ汗が流れ落ちるのが、まるでアクション映画の主人公であるかの
戦い済んで――戦士たちには平穏な日常が戻ってきた。VIP病室には茜色の夕日が差し込んでいる。清潔なベッドには、静かな寝息を立てる祐市。ベッドの傍らに立つ史緒里は、祐市の穏やかな寝顔に、そっと手を伸ばした。「祐市さん……」無事を祈って震える声。心配して泣き腫らした目元。まるで重症者に対する振る舞いだが、実際には祐市は“念のため”に受けさせられた精密検査で疲れて眠っているだけだ。そもそも鬼神もかくやという史緒里がそばについていながら、怪我などさせるわけがない。祐市は幸せそうに微笑んで、むにゃむにゃと寝言を言った。「史緒里、結婚式をやり直そう、君の存在を公に発表するんだ……」その破壊力に、史緒里がズシャァと膝から崩れ落ちる。「ああっ、祐市さん、こんな時まで恋愛小説のクズ男っぽいなんて! わかります、わかりますよ、とりあえず結婚式を約束すれば、女はおとなしく納得してくれると思い込んでいる傲慢御曹司系クズ男のセリフです、それ! しかも寝言で本音が漏れる王道演出! 神ですか、あなたはクズ男の神なんですか!」床の上で身をくねらせてしばし悶絶した後、史緒里はすっと立ち上がった。その表情には、すでに冷静さが戻ってきている。「でもね、祐市さん、クズ男の結婚の約束って、反故になるのがセオリーなんです。愛人の妨害にあったり、奥さんがクズさに見切りをつけて失踪したり……だからそのセリフ、フラグなんです」言ってることはこれっぽっちも冷静ではないが。史緒里は親指で祐市の唇に触れ、その形をなぞった。「だから、そのフラグ、回収しますね、お別れです」史緒里は親指をどけ、彼の形良い唇に自分の唇を重ねた。寝息を舐めるような、静かなキス。まるで時間が止まってしまったかのような、ただ静かな口付け。やがて、名残惜しそうにゆっくりと唇を離して、史緒里はさみしく笑った。「私、行きますね」祐市を守るため、五霞を潰しに――「どうか、普通の幸せを……」それは自分では彼に与えられないものだと、史緒里は知っている。なぜなら彼女が進む先は、いつだって“戦場”なのだから。くるりと背中を向けた彼女は、もう、振り返りはしなかった。それから2時間経って――VIP病室の清潔なベッドの上で目を覚ました祐市は、得体の知れない不安に脈打つ自分の胸を、強く押さえた。なぜだろう。と
その頃ヘリの中では、真理恵が厳しい顔で海を見下ろしていた。果てない大海原のど真ん中に寄る辺なく浮かんだ船は、周りの海水を巻き込んで大きな渦を作り出しながら海中に引きずり込まれてゆく。操縦士が叫ぶ。「真理恵さん、帰還しましょう、残念ですがこの状況ではもう……」「まだよ!」真理恵の横顔は青ざめているが、その瞳にはまだ諦めきれない希望の光が強く灯っていた。「しおちゃんがこの程度でやられるわけがないでしょ……」鬼心流の後継者として修行する史緒里の姿を長年見守ってきた彼女は知っている。装備も無しに山中でサバイバルさせられたり、酸素ボンベもなしに大海原に投げ出されたり、人体のポテンシャルを最大限まで引き出しさらなる高みを目指すその修行は、もはや“ほぼ人体改造”の域にある。あの修行を耐え抜いた彼女ならばワンチャンあるのではないかと。思ってはいるのだが……「なんでこんなに待機組がいるの!」上空にはヘリが7機。うち3機は史緒里の生還を信じる真理恵が待機させた霞ヶ浦警備保障のものである。さらに追加で飛んでいる3機の霞ヶ浦警備保障機は、貴理子が指揮を執る“空飛ぶ情報統制室”こと各種ソナーおよびデジタル機器を搭載した探索機。「この距離なら生体反応を直接観測できるでしょ! 少しでも反応があったら即データ化、私に送って!」「頼りがいあるけど邪魔ぁ! この狭い空域になんでこんなにヘリがいるの!」さらにもう一機は今回の協力団体であるヴィリオットファミリーのプライベート機。ハッチを大きく開けたキョースケは、痛ましく震える声で「フラテッロ……」と囁き、献花を海に投げた。その隣ではジョバンニが「ニンジャガール……」と、これも悲痛な表情で“心臓を捧げよポーズ”をとっている。「早い早い早い、諦めよすぎ! あとそっちのオタク、その敬礼はニンジャ関係ないから!」そして波間には爽介が凄腕テクで操縦する一隻の高速艇。海上にいくつも浮かぶ渦の間をすり抜けながら、拡声器で声を響かせる。「しおちゃん、お兄ちゃんが助けに来たぞ!」「危険海域を疾走しないで! あとお兄ちゃん設定、まだ引っ張るのやめて!」真理恵が果てしないツッコミに疲れ切ったその時、海上にポツリと黒い点が浮かび上がった。「しおちゃん! 早く、網を下ろしてあげて、早く!」それを合図に、7機のヘリが救助用の網
祐市を拘束して銃を突きつけることには成功した五霞だったが、精神的にはすでに疲弊し始めていた。なにしろこの男、銃を突きつけられているというのに一切怯えの色がない。それだけではなく、ペラペラと喋くって交渉を続けている始末だ。この状況なのに、命乞いでも説得でもなく、“交渉”を!「つまり、俺を殺し、日立の本家を乗っ取り、その資金で軍需産業の世界に参入したいと、そういうことだな」「そうだ、すでにコネクションも作ってある、あと必要なのは資金! 資金なんだよ!」「ならば事業計画書を提出してくれ、その内容次第では投資をしてやろう、正当な商取引というわけだ」「そんなまどろっこしいことしなくても、日立家の資産を自由に使える立場になれば、手っ取り早いだろ」「一理ある。しかし軍需産業への参入はリスクマネジメントの観点から、お勧めしない。クリーンな企業であるという我がグループのイメージが損なわれた場合、一般消費者の購買意欲や、既存の取引先との関係性の変化などの損失は計り知れない。かつ、新たなノウハウの取得やマニュアルの構築など、専門家を招聘する必要もある」「しゃらくせえ! ビジネスの話をしてるんじゃねえんだよ!」「そうか、では別の側面から話をしよう、実は俺、もうすぐ父親になるんだ」「な、なんの話だ?」「生まれてくる子が幸せであるように……そして世界中の子供達が幸せであるように……ラブ・アンド・ピース、戦争などという不幸の種に金を出したくはない」「立派ぁ! 理念は立派ぁ! だけど今の状況を理解して!」五霞の情緒はジェットコースター状態。上げられたり下げられたり、振り回されてもうぐちゃぐちゃ。「まずはステップワン、いまお前は人質なの! 俺はお前を餌に、あの恐ろしい女を誘き出してなぶり殺しにしようと思ってるの!」「なるほど、悪人だな」「いいね、ようやく俺が悪人だと気付いたのか。じゃあステップツー、俺はお前らを巻き添えにして自爆する覚悟、だから船を爆破した、もうすぐこの船は沈む、タイムリミットは……あと10分ってところかな」「いや、君はこの船と命運を共にする気はないはずだ、なぜなら、日立家の財産を手に入れても死んでしまったら使えないからな、だから脱出経路なり安全装置がどこかにあるはずだ」「無駄に鋭い推理! なんなの! 天才なの? バカなの? ほんとちょっと、
史緒里が船内をうろついているのは、ラブコメを繰り広げるためじゃない。彼女の目的は、船内に潜む敵を霞ヶ浦警備保障が待ち構える甲板に追いやることにある。「鬼心流、奥義!」「な、何だ、腕を握られただけなのに体が!」「まて、何でこっちに銃を向けるんだ!」「違う、これは俺の意思じゃない!」「退却だ、退却ー!」船内はあっという間に無人になった。「ふう、ざっとこんな感じですかね」爽やかに額の汗を拭う史緒里を、塙山は鬼を見るような怯えきった目で見上げる。「な、ナニモンだ、あんた……」「ただの特殊警備員ですよ」その隣で祐市は称賛のこもったキラキラ輝くまなざしで史緒里を見上げる。「さすが、俺の史緒里」「ああっ、いいですね、"俺の"って枕詞が、めちゃめちゃに恋愛小説っぽい!」塙山はそんな二人の背を押す。「そういう夫婦漫才はいいから、俺たちもさっさと出ましょう」「そうだな」デッキに上がると、医療班を指揮するために乗り込んできていた真理恵が史緒里を出迎えてくれた。「お疲れ様、おかげで重症者および死者もナシ、さすがね」「これで全員回収?」「それがねえ……首謀者である五霞修也がいまだに所在不明なのよ」塙山はふっと顔を上げる。「あー、あの人、なんかノリノリで船の改造に金突っ込んでましたからねえ、俺らですら知らない隠し通路とか、仕掛けとか、そういうのがあると思うんですよ」それに応えるのは、史緒里の横で顔つきだけはキリリと凛々しい祐市。「情報提供、感謝する」彼は何も迷うことなく、船内に戻ろうとする。史緒里は慌てて、祐市の袖を引いた。「待って待って、どこに行くつもりですか!」「ん? 奴は俺に恨みがあるんだろ? だったら、俺が出向いて、その恨みを聞き、償い、仲直りするのが当然じゃないか?」「ああっ、かっこいい! 顔がいいから余計にかっこいい! 平然とフラグ立てる姿も尊い!」史緒里は祐市の男気と顔面にやられかけて、ほんの一瞬、膝から崩れ落ちそうになった。……が、最弱の男である彼を、一人で敵地に向かわせるわけにはいかない。「祐市さん、ステイです、ステイ! 私がその人を見つけて、ここへ連れてきます、仲直りはその後ゆっくりすればいいんですよ!」「なるほど、一理ある」祐市は納得した様子で、深く頷いた。それを見た史緒里は、真理恵に顔を向ける。
現場は混乱を極めていた。「保護対象、船内を移動しています!」「中層区域で会敵!交戦中です!」「Sのメンタル、バイタル共に安定! 現時点での暴走兆候なし!」それを聞いた新人くんは言った。「そんなに強いなら、彼女一人に任せれば簡単なのでは?」途端に四方八方から非難轟々。「よく考えろよ、霞ヶ浦警備保障は一般企業だぞ、一般人相手にオーバーキルとか、企業イメージ台無しだろが!」「この戦いは単純な制圧戦じゃないんだ、ちゃんと理解してるか?」そう、これは霞ヶ浦警備保障のイメージ戦略に関わる重要な戦いなのだ。問題は、戦略上の重要人物たちに、全くこれっぽっちもその自覚がないこと……「君は庶民階級の出身なのか?」デッキに向かって歩きながら、祐市は塙山に向かって気さくに話しかける。史緒里はそんな二人の後ろ三歩の距離を保ちながらついてくる。時折「こふーっ」と呼吸音が聞こえるのが物騒極まりない。塙山は戦々恐々。「後ろの護衛の方、あれは俺があなたに何かしようとしたら確実に一瞬で仕留めるための間合いですよね」「護衛じゃないぞ、つ……妻だ」「いや、話のキモそこじゃないし! 嬉し恥ずかしそうな顔もやめて! こっちの情緒壊しにこないで!」「君は元気がいいな!」「お触りやめて! 奥さんが殺気向けて来ちゃうでしょうが!」「わかった、触らない、その代わり、俺の質問に答えてくれ」「はいはい、どーぞ」「実は妻とは一時的に離婚状態にあってな、俺としては復縁したいのだが、やはり土下座をするべきだろうか?」「一時的な離婚状態って何! で、土下座で済まそうとするの何! ほんと、なんなの、あんたら!」ひとしきりツッコミを入れた後で、塙山は自分が人質であることを思い出した。いや、隣を歩く男はそうは思っていないかもしれないが、後ろからの殺気がすごい。余計なことは言わないに限る。「土下座云々より、何をしたのかじゃないですかね、奥さんが許せないようなことしてたらアウトでしょ、何しでかしたんです?」「冷遇した! 狭い物置部屋に住まわせたり、酒の席に呼びつけていじめたり!」思わずツッコミが飛び出しそうになるが、塙山は深呼吸で無理やり気持ちを落ち着ける。「どうでしょうね、さっきから見てると、奥さんからはそれでも好き好きな雰囲気を感じますし……他にも何かしちゃったりしてます
日立みやびは恋愛小説でよくみる、いわゆる”虐げられた妻”である。みやびの嫁ぎ先である日立家は由緒正しい大財閥であり、義母はそこに入り込んだ”庶民”である嫁を嫌い抜いている。気まぐれに嫁を呼びつけて雑用や宴の下働きを押し付けるなんて日常茶飯事、口を開けば嫌味ばかり、時には”家訓”と称して体罰を与えることもある。夫――日立祐市(ひたちゆういち)は祖母がどこかから拾ってきた”庶民の嫁”であるみやびを恥ずかしく思っている。当然結婚式などは挙げていないし、世間に結婚を公表することもない。「俺には初恋の女がいる」と言って憚らず、みやびのことを都合の良い家政婦であるかのように扱う、まさにお手本通







